赤ちゃんは、未熟なのがあたりまえ。
できないのがあたりまえな存在です。
赤ちゃんは赤ちゃんの成長ステージがありますので、
泣いたり食べたり親のぬくもりを感じたり、
というのが赤ちゃん本来の役割なわけです。
当人たちは、大人のように振る舞えなくても意に介しません。
できないところが出発点ですし、その場合、全てが学びになりますよね?
赤ちゃんに対して、「なんで就職しないんだ?」とか、「貯金しなさい!」なんて、
本気で言う親はいないはずです。
しかし僕らは大人になると、大人の相手に対しては
「この人は完璧のはず」という視点で見て、結果を判断してしまいがちです。
僕らは育っていくにつれ、社会的な情報の刷り込みや、自分独自の体験から、
成熟した人物、といった固定観念的な大人像を形成し、それにあてはめているからなのです。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
大人が完全に成長しているとしたら、もう伸びる余地がないことになってしまいます。
つまり、残された可能性はわずかで、現在は頭打ちの状態である。
このような観念をより強固にしてしまう可能性があるのです。
大人に成長余地がないなんて、ただの固定観念にすぎません。
例えば、アインシュタインが特殊相対性理論の論文を発表したのは26才で、
E=MC^2の論文を発表したのは28才、そして一般相対性理論の論文は
37才のときに発表されたのだそうです。
これを見ても明らかなように、アインシュタインは大人になった瞬間に
大きな仕事を成し遂げたのではありません。
アインシュタインの経歴だけを見ると、成果の出た瞬間瞬間は完璧なように見えますが、
その瞬間から次のステージへのステップが開始されていることを見逃してはなりません。
成果を出した途端に、アインシュタインは謂わば未完でもあるのです。
そして、成長過程がなければ成果は出ませんから、
成長過程という未熟な時期も、「完璧を生むための完璧な状態」であると捉えることができます。
ですから、どのような局面であれ、その局面ごとに未熟であり、完璧であると言えるのです。
何かの事柄について、それを未熟と見るか、完璧と見るかは、観察する僕たち一人ひとりの
判断にかかっているというわけです。
それが、完璧だけを求めないということです。
人は常に、完璧なのですから。