今回は、夏休みをいただいたこともあり、ボリュームが非常に多くなって
しまったため、今回のテーマについてはVol.7、Vol.8(次号)と
2回に分けて書かせていただきたいと思う。何卒、ご了承いただきたい。
鎌倉時代は激動の時代
鎌倉時代とは、1185年~1333年まで続いた鎌倉幕府を
中心とした武家政治の時代を言う。
この時代は、一般庶民が政治・制度改革や自然災害等々により、
長きに渡り苦しんだ時代でもある。
その代表的な事案を挙げるとすれば、私としては、
(1)守護・地頭
(2)疫病・流行病・飢饉・自然災害
(3)元寇
この3つなのではないかと思うのだ。
それでは、この(1)~(3)について、軽く触れさせて
いただきたいと思う。(ウィキペディアより一部抜粋)
(1)守護・地頭
「守護」とは、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、
国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が鎌倉
殿へ守護・地頭の設置を認めたことによって、幕府の職制に組み
込まれていった。
将軍により任命され、設立当時の主な任務は、
在国の地頭の監督であった。
「地頭」とは、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を
管理支配するために設置した職。地頭職という。
在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・
行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。
多くの地頭が横暴を極める年貢の取り立てを行い、
百姓・農民を苦しめたと言われている。
(2)流行病・疫病・飢饉・自然災害
災害としては、1181年養和の大飢饉・1199年鎌倉大地震・
1201年東国大暴風雨・1202年鎌倉大地震・1214年鎌倉大地震・
1231年寛喜の大飢饉・1239年加賀白山噴火・1258年正嘉の飢饉・
1293年鎌倉大地震などが挙げられ、疱瘡(天然痘)・
麻疹(はしか)・水疱瘡(水痘)・結核・ハンセン病などの
病気も大流行した。
また、日蝕や月蝕・大流星などの「怪現象」(当時ではそう思われていた)が
繰り返し起こっていた。
これら災害や流行病に、地頭による執拗な年貢の取り立てなどが重なり、
一般庶民の間で大規模な飢饉などが発生した。
子どもから老人、そして動物まで、道のいたるところに屍・死骸が
転がっており、目を覆いたくなるほどの悲惨な光景が広がっていたそうだ。
(3)元寇(げんこう)=蒙古(もうこ)
元寇とは、鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国
(元)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に亘り
行われた対日本侵攻の呼称である。
一度目を文永の役(1274年・ぶんえいのえき)、二度目を弘安の役
(1281年・こうあんのえき)という。蒙古襲来とも言う。
主に九州北部が戦場となり、この戦いによって、武士や庶民
数万人が亡くなったとされている。
鎌倉時代は、上記3つの事案や他様々な事案が”重なり合うように”
一般庶民や農民・百姓を苦しめていた時代と言えよう。
人々は、この苦しみから少しでも解放されたいと願っていたことだろう。
しかしながら、この思いや願いも虚しく、どうすることもできず途方に
暮れる方々や、無念の思いで死んでいった方々がどれほどいただろうか。
こうした時代背景の中、「鎌倉仏教(新仏教)」が誕生したのである。
鎌倉仏教(新仏教)とは
ここでは、鎌倉仏教(新仏教)について少し触れてみたい。
当時ではすでに、「旧仏教」(南都六宗、天台宗および真言宗)側も
奈良時代に唐僧鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、
社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開していた。
しかしながら、その厳しい戒律や修行、学問重視の教えが
一般庶民には到底手の届かないものであったのである。
これに対し、鎌倉仏教(新仏教)は、厳しい戒律や学問、寄進を
一切必要とせず(ただし、禅宗だけは戒律を重視)、「全ての人間は
信仰(仏を信じ、手を合わせる)によってのみ救われる」という、
非常に優しくわかりやすい教えを展開したのだ。
以下6宗6僧による「鎌倉仏教(新仏教)」を紹介する。
(ウィキペディアより一部抜粋)
●浄土宗/法然(1133~1212年)
難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。
ただひたすらに、念仏「南無阿弥陀仏」(阿弥陀如来に帰依します、
という意味)を唱えることが大切だと説く。
●浄土真宗/親鸞(1173~1262年)
法然の教えをさらに進め、一念発起(一度信心をおこして念仏を
唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。
●時宗/一遍(1239~1289年)
賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や
浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。
●日蓮宗(法華宗)/日蓮(1222~1282年)
法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、題目「南無妙法蓮華経」
(法華経に帰依します、という意味)を唱えるだけで救われると説く。
辻説法(街頭に立ち、教えを説く)で布教活動を行った。
●臨済宗(禅宗)/栄西(1141~1215年)
坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、
悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。
●曹洞宗(禅宗)/道元(1200~1253年)
ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、
世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。
これら6宗6僧は、人々に”寄り添い”、優しく、わかりやすく、
新たな仏の教えを説いたのである。こうして鎌倉仏教(新仏教)は、
新たに台頭してきた武士階級や一般庶民へと急速に広がっていったのだ。
鎌倉仏教(新仏教)が急速に広がったその背景
先に挙げた3つの事案が、鎌倉時代の庶民にとっていかに
恐怖や絶望を与えたのか。
自然災害や怪奇現象が頻繁に起こる中、それでも地頭による年貢の
取り立ては激しさを増していった。災害により、米の収穫がほぼ無いという
状況下にありながら、年貢は一定量必ず納めることを強要され、
納めなければ罰を受ける。
その罰は、現代でいう「執行猶予付、懲役3年」などではなく、
拷問と呼ばれる「体罰」である。
この拷問の激しさにより、死んでしまう人間もかなりいたという。
見せしめのため、庶民を一同に集め、皆のその目の前で
拷問を行ったりしたのである。
「どうだ、わかったか。年貢を納めなければお前らもこうなるぞ」と。
この恐怖を想像できるであろうか。
食べなければ死ぬ。納めなければ死ぬ。
どちらにしても、常に身近に「絶望的な死」が存在していたのである。
自らの寿命などで死ぬのではなく、「殺される」のである。
これを「絶望的」と言わず、何と言おうか。
この「絶望的な死」の存在は、庶民の生活に「絶対的な絶望」しか
与えなかったのだろう。
幕府では、権力争いが盛んになり、内乱も度々起こっていた。
そして、日本では初めての外国勢力による「侵略」が発生した。
「元寇」である。
この元寇が起きる前、鎌倉仏教の「日蓮宗/日蓮」は幕府に
「立正安国論」を提出(当時の執権北条時頼に向けて)し、
以下のように論じた。
「法華経に記された三災七難のうち、まだ起こっていない「自界叛逆難」
(反乱)と「他国侵逼難」(外国から侵略をうける災難)も
必ず起こるであろう」と。
これが見事に的中してしまった…。
この「元寇」は、日本国内の戦しか経験したことのない武士たちを
「戦法(ルール等含む)」や「武器の能力」の違い等で混乱に陥れ、
圧倒的な優位性をまざまざと見せつけたのである。
幸い、日本が完全に侵略されることにはならなかったが、この犠牲はあまりに
大き過ぎた。数万人の武士と庶民が亡くなってしまったのである。
特に、一時制圧されてしまった対馬の庶民は全滅状態にさせられたと
言われている。こういった事案が、常に庶民の心を揺さぶり、
絶望と恐怖の淵に立たせていたのである。
こういった中、鎌倉仏教の開祖たちは、絶望の淵に立たされた庶民を
救おうと立ち上がり、その教えを丁寧に、そして親切にわかりやすく、
説いていったのである。
この根本は「仏はあなた方に寄り添い、私たち(鎌倉仏教の宗祖)も
あなた方に寄り添います」という教えであり、庶民は藁をも掴む思い
で、その救いを求めたのである。
「どのような身分の人間であっても、仏の教えは無限であるのだから、
必ず救われるのです。それが仏の教えなのです。信じなさい」と。
ここで考えてみたい。
この「寄り添う」という行動が、いかに重要なことなのか。
現代の「寄り添う=コミュニケーション」というものを私の経験等も
踏まえつつ、次号Vol.8で見ていきたいと思う。