石原慎太郎東京都知事が、終戦の日である8/15に、靖国神社を参拝したそうです。
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http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/523138/石原知事は参拝後、報道陣に対し、首相と全閣僚が靖国神社に参拝しない方針を示したことに「あいつら日本人じゃないんだ」と激しく批判した。
この日は、都の戦没者追悼式典に出席後、靖国神社に直行。「国を救ってくれって言った」と話した上で、報道陣から菅政権による政治の混迷を問われると「自業自得だよ。日本人が堕落したからこんなことになったんだ」と述べた。
さて、靖国神社の参拝についての是非は、日本国内のみならず周辺諸国の目もあって、
毎年の終戦記念日が近づくごとに報じられています。石原都知事の意見は
一つの正論なのでしょうが、実際のところ21世紀になってもこの問題は解決していません。
それは、靖国神社の参拝を反対している方々も、その目線では正論を述べているからです。
お互いが正論を述べているのに、解決に至らない。ここにロジックの限界点を感じます。
僕としては、参拝の是非を問うて激論を戦わせることよりも、もう一段進んで解決の道を
目指したほうが建設的なのでは、と考えるようになりました。
解決こそが第二次世界大戦で得た教訓を活かしたという証ですし、
英霊の望みだと想うからです。日本の終戦記念日が、本当の意味で戦争を終わらせる
記念日となることを望んでいます。
世界は狭くなった
科学の発達は、人類に新たな体験をもたらしてきました。ただ、その体験には、
どうしてもプラスの面とマイナスの面が存在していたのも事実です。
例えば、航空機の発達は僕たちが気軽に海外旅行へ出かけることを可能にしてくれました。
しかしその一方で、戦争のときにはいち早く敵国を攻撃する手段にもなったということです。
戦争は、人類が実行可能な最大級の破壊行為のひとつですが、現時点での人類は全体的に
三次元以下の意識レベルにあり、破壊というマイナスのエネルギーをコントロールするのが
不得手であると言えます。
もし、マイナス面の制御をきちんと行えていれば、破壊エネルギーの発露である戦争など
起りようがなく、例えば航空機の役割は、平和的なものに限定されるはずだからです。
前世紀に発明された航空機は、船舶、鉄道、自動車という、面に縛られた乗り物に比べたら
全く異質の乗り物です。その航空機もプロペラエンジンからジェットエンジンになり、
音速を超え、ロケットエンジンを積めば宇宙空間から地球の表面を観察できるまでに
なりました。
また、無線機器やインターネットの発達で、世界中のどこにいてもほぼタイムラグなく
通信が行えるようにもなりました。これらの物理的事実は、以前と比べ明らかに世界が
狭くなってきていることを物語っています。つまり、世界が狭くなったのは、
科学技術の発達に伴った現象だと言えるでしょう。
科学と意識の統合
現代社会が抱える数々の問題を目の前にして、僕たちが気づかなくてはならないのは、
本来は科学技術の発達と不可分のはずの、意識の発達が疎かになっていたという事実です。
そのバランスが崩れた分、科学技術だけが急激に発達した歪みを、マイナスの現象として
すべて引き受けなくてはならなくなりました。
意識の未発達により起るマイナスの現象は、科学技術のプラス面で補うのではありません。
どんなマイナスの現象をも帳消しにする人類の意識が根本になければ、補うものも
補えないのです。
人類の意識が「国」単位から少なくとも「地球世界」の単位へ変われば、
マイナスの現象もその意味を変え、人類の本来あるべき姿と統合されることになります。
そして、人類は真の宇宙時代へと足を踏み入れることができるのだと思います。
科学技術とは、人類が宇宙から取り出したものであり、人類に利するべきものです。
しかし戦争に代表されるように、人類自らが生み出した科学技術というツールで
自分たちを傷つけるのは、やはり僕たち人類が、科学技術と意識面を
統合しきれていないことの証しであると言っていいでしょう。
国境の概念が変わる
現在の世界は、国境の在り方を意識的に捉え直す時期に来ていると思います。
科学技術の発達により、相対的に世界が狭くなったのですから、
そのスケール感に合わせるように、国と国の間に引かれた境界線の意味合いも
変化するのが自然なのです。
明治の日本で廃藩置県があったように、古いフレームは変わらざるを得ません。
何年後か何十年後かはわかりませんが、国という単位も変わり、
今で言う地方自治体のような感覚になるのではないでしょうか。
これまで、国境は防衛ラインの役割を果たしていました。敵から身を守るため
境界線を引いて、味方である自分たちと、自分たち以外の勢力を脅威と見なし、
分けたのです。
そして、国境は国家のアイデンティティーを形成します。日本人、中国人、
アメリカ人といった、国ごとのアイデンティティーがそれにふさわしい
「国民像」をつくりますが、果たしてそれが本当の「人間像」なのかは、
再検証の必要があるように思います。
全人類が共有する価値観
日本にも領土がありますが、その土地をさらに境目ごとにわければ、関東、関西といった
地方になります。関東地方を細分化すれば東京都や神奈川県などになり、例えば東京都は
さらに区や市、町、さらには一軒の家の土地にまで分けられるはずです。
一軒の家という概念は、日本だけにあるものではなく、世界中のあらゆる国にあります。
例えば、日本の一軒の家という概念と、日本との領土問題があるロシア、中国、韓国
といった国々の一軒の家という概念に、大差はないはずなのです。
世界の各地に住まう人間の一人ひとりも、魂の観点から見れば差はありません。
言語や皮膚の色など、表面的な違いはあるのでしょうが、根本的には誰しもが自分の幸せを
願い、世の中の平和を願っているはずです。根本的な価値観は全人類が共有できる
はずなのに、国家が持つアイデンティティが個人を封殺し、誰しもがもっている
本来的な自由の芽を摘んでいる場合があります。
また、国家よりも大きい単位はアジア、ヨーロッパといった広大な地域であり、
その地域を集めれば世界となります。視点を上げて見ていけば、究極的には太陽系や
銀河系をも超え、宇宙という単位になるでしょう。最大の単位である宇宙から見れば、
そこに境目はありません。
そして反対に人間の一人ひとりが国境を越え、「人類」として結びついてきた歴史が
あることも、ここで証明するまでもありません。
そういった事実に照らし合わせると、宇宙全体のなかで「国」同士というレベルで
戦争が起ることが、ナンセンスに思えてくるのではないでしょうか。あらゆる争いの
根本原因は、お互いの無理解にあると思います。現代は、見ようとしなくても、
知ろうと思わずとも隣国の存在を感じる時代です。
すぐ隣に感じているのに、無理解でいようとすることのほうが不自然であり、
世界が狭くなる前の古い意識を持ち込むという、時代錯誤な行為であるとも言えるのです。
境目のない世界が、平和をつくる
靖国神社は、戦争や内戦といった日本の国難に際し命を失った方々を祀る施設です。
国のため、つまりは現代に生きる我々のために命を捧げた先人、ご先祖さまに感謝し霊を
慰めることは、人としてあたりまえのことでしょう。靖国神社はその名の通り、
国に殉じた方々を祀っていますが、それに矛盾しない形で、国境を越えて戦争の
犠牲になった方々を慰めることも、これからの時代には必要なのではないでしょうか。
第二次世界大戦の終結後、平和憲法下にある日本の国民が戦地に赴き、戦死したケースは
ごくわずかでしょう。しかし、世界を見渡せば現代でも戦争は続いています。
真に平和を希求し、戦争で亡くなった英霊の望みを根本的に叶えるのであれば、
靖国神社は時空を超えて、人類史上すべての戦没者を祀ることが最適なのではないでしょうか。
英霊となった人たちが靖国神社に祀られ、望んでいるのは、日本の恒久的な平和のはず。
天に昇った英霊たちは、絶対的な視点を得ていますから、知っています。
真に平和を求めるのであれば、日本だけの平和を望んでいては叶わないのです。
世界中の平和が実現されてこそ、日本という国にも、人類の一人ひとりにも、
真の平和が訪れます。平和を望む気持ちに、日本人という枠を設ける必要はありません。
人類全体で、平和を手にしていけばいいだけです。
真の文明
どのような集団でもそうですが、自分たちの身を守ろうとするほど、自分たち以外を
敵としてしまう傾向があります。相手のことを考えず、科学技術だけを発展させて
しまったのが、人類のマイナス面として現在も残っています。
それを踏まえ、人類が全体の意識に目覚めることで、科学技術も真に有用なものになり、
人類は初めて「文明」を生きることになるのではないでしょうか。
平和とは、戦争と戦争の間にある猶予期間ではありません。敵が皆無になるという
絶対的な境地こそ平和であり、全人類の望みです。日本の戦没者、そしてかつて世界中で
戦争の犠牲になった方々はもちろん、今まさに銃の引き金をひいている兵士ですら、
根本的には世界中の幸福を願っている、人類の一人であり、仲間なのです。
by 中里 昌克