無欲で生きるとは?
無欲でいることって、心がどんな状態になっていることを
指すのでしょうか?常識的に言えば、欲張らず、多くを求めず、
身の丈にあった環境や、手にしているもので満足することを
言うのだと思います。
こういった生き方は、物欲にまみれた生き方とは反対側の
生き方として、明暗がくっきりしています。だからこそ、
無欲な生き方は、物欲にまみれた生き方と比べ、なんだか高尚で、
素晴らしいものに見えます。
もし、誰しもが物欲にまみれた生き方をしたら、人間の社会は
どうなってしまうでしょうか?自分のために周りはどうなってもいい、
という社会になってしまいますから、ルールや法は守られず、
汚職がはびこり、殺伐とした雰囲気の社会になってしまうでしょう。
さらには自然環境への配慮もなされないでしょうから、土、空気、
水などいくら汚染されてもお構いなしに、欲の赴くままに
環境は破壊されていくことでしょう。
そういった生き方よりは、無欲な生き方のほうがいいように思えます。
なぜなら、少なくとも無欲な人同士で争いは起こらないからです。
手のなかにあるもので満足できていれば、奪い合うこともなく、
自然環境を壊すこともないはずです。
しかし、真我そのもので生きていこうと試行錯誤していくなかで、
僕は無欲の根本的な意味が、ちょっと違っていたと感じるようになりました。
完璧性を、素直に受け入れる
ちょっと違うと感じたとは、いったいどういうことでしょうか?
先ほど挙げた例では、物欲にまみれた生き方と、無欲な生き方は、
対立する意味同士になっていました。
しかし、実相はそうではない、と思うようになってきました。
真我で生きて行くことは、完全完璧を感じ、それを体現するということです。
仮に「自分は完全完璧だ」と豪語する人がいたら、とても傲慢に見えるかも
知れません。
ただ、実相は、僕たちは宇宙の一部であり、完全完璧です。
傲慢になるとは、他人との比較があって成り立ちます。ですので、
誰かと比べるのではなく、とにかくすべての完璧性を素直に受け入れることが、
究極なまでに無欲なのではないか?と思うようになってきたのです。
このあたりは僕もまだうまく説明できないのですが、
物欲にまみれた生き方と対立しない、無欲な生き方があるようなのです。
真我は、完全完璧な自分です。そこに対立という概念はありませんから、
物欲にまみれた生き方が悪く、無欲な生き方がいい、といった
価値判断そのものがないはずです。
価値判断モードになっている状況では、真我モードでの
無欲の正体は、わからないのです。
我を張らないと、心が満ちてくる
言い換えれば、真我モードの無欲とは、「我」を張らないこと
だと思います。ここでいう「我」とは、エゴのことです。
我を張らなければ、完全完璧な真我が、現実面に顕われてきます。
その完全完璧な自分を、すんなり受け入れてみること。
これが、我のない状態、無欲な状態なのではないでしょうか。
そうすると、物欲にまみれた人生と、無欲な人生のどちらがいいかなど、
比べなくなります。あるがままに生きる、という言葉が、
だんだんしっくりくるようになってきます。
このことは、僕のなかに大きな恩恵をもたらしつつあります。
真我に基づいた無欲でいると、変な夢は持たなくなりますし、
努力して達成したい目標も劇的に減って行くのですが、
かえって心が満ち足りた生活になっていきます。
真我の無欲で何が起こるか?そして、どういった広がりを見せるのか?
これから重点的に実践して、その成果をお伝えしていきたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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