常識と幻想

いま日本では、数々の問題が起っています。

例えば、医療の分野だけ見ても医療費の増大や小児科医の不足、
そして無医村の問題など、数えればきりがありません。

日本の少子高齢化についても、晩婚化はもちろんですが、
子供がいる親も保育園の待機児童が偏っている現実があり、
働く環境、そして子供を育てる環境を整える必要があります。

そういった要因が複雑に絡み合い、問題はさらに巨大になって、
僕たちの心のなかで“モンスター”になっていきます。

そのモンスターを相手に、問題を把握して原因を究明するのは、
そして実際に変えていくのは、とても大変なことでしょう。

日本で起っている問題は、政治、教育、医療、家庭と、
様々な場面やレベルにおいて拡がっているように思われますが、
なぜこういった問題が起るのでしょうか?

問題の本質は、僕たちが「自分は正しい」と、
信じ切ってしまっているところにあります。

もっと言えば、自分が正しくて、
相手が間違っているという、単純な枠組みにすべてを
放り込んでしまっていることが主な要因なのではないでしょうか。

僕たちは、五感を通じていろいろなものを見たり、聞いたり、
味わったりなど、自分の肉体の外で起っている世界の情報を、
感じとる機能が備わっています。

もちろん、その機能は生きていく上で、そしてもう一つ上のレベルである、
この三次元世界を楽しむという魂の目的の上で、なくてはならないものです。

例えば、花壇に咲くたくさんの花の色を見分けることで、
僕たちは自然に咲く花にいろいろなバリエーションがあることを知ります。

料理にも色々な味があることで、より自分の好みが明確になり、
さらにおいしい料理を食べたいと思ったり、食事による健康管理を
実践できたりします。

もっと言えば、生と死という概念があるからこそ、
僕たちは生を喜び、動物の生命や、自らの人生を尊いものに
感じることができるのです。

しかしその反面、モノゴトを分けて判断する機能は、
それが過剰反応してしまうという側面があります。

例えば、濃い味付けの料理が好きなのはいいのですが、
塩分や脂分を過剰に摂取してしまい、健康を害してしまう
場合があるのです。

食生活が原因で病気になった場合、その本人はまさか
病気になるとは思っていなかったでしょう。

ということは、病気になった原因というのは、
濃い味付けの料理ではなく、それが健康を害するという
自覚のなかった、本人の常識にあるということです。

信号が赤なら止まり、駅のホームでは白線の内側に下がるといった
一般的な常識が僕たちの安全を守ってくれているのは事実です。

ただ、その反面、僕たちが成長していくなかで、いつの間にか
「これが常識」と思い込み、むしろ健気なまでに頑なに守り通した常識が、
結果として人間が本来あるべき姿になることを、
妨害してしまうこともあるのです。

間違っているとわかっているなら、早い時期に改善できる可能性が
ありますから、多少は救いがあるでしょう。

しかし、間違っていることに気づくこともできないことが、
問題を拡大してしまうさらなる要因となります。

問題の原因は、いま僕たちが過ごしている常識の観点から見たら、
発見することはとても困難です。

先に挙げた日本社会が抱える問題も、原因がはっきりせず、
また、改善が進まないのは、僕たちが常識の観点から
モノゴトを見ているからなのではないでしょうか?

その常識とは、人間がいつの間にか信じてしまった、
ひとつの価値観にすぎません。

その信じてしまった価値観とは、
モノゴトを分けて判断することに絶対的な価値があるという
「幻想」なのです。

日本でも、かつては男尊女卑の社会がありました。
そして、士農工商という身分制度で縛られた時代がありました。

現代風に言えば、収入の多い人間、組織の上役が偉い、
といった価値観でしょうか。

しかし、実際のところはどうでしょうか。

例えば、色で言えば、赤が偉くて青が劣っているということがあるでしょうか。
音階で言えば、「ド」よりも「レ」のほうが高貴だ、なんて言えるでしょうか。

赤や青、そして他の白や黒、緑、黄……など、いろいろな色、無限の色調が
揃ってこその「色」です。一つの光をプリズムに通したとき、
すべての色が出てくるだけなのに、「赤」だけが素晴らしいと思うのは
全くの幻想です。

音階にしても、ドレミファソラシが揃ってこそ、美しい曲が奏でられます。
そしてすべてが揃っているから、オクターブを超えた広い周波数帯に
音楽が存在できるんです。

例えば、あなたを色の「青」だとします。

まわりには、「赤」「黄」「緑」など、様々な人がいます。
その場合、あなたは「お前は赤だからダメだ!」「黄色なんてあり得ない!」
「緑?今すぐ赤になりなさい!」なんて言うでしょうか?

色同士、それぞれの色があるのは、一つの個性です。

個性があることはわかっているはずなのに、
ついつい青以外の色を否定したり、攻撃の刃を向けてしまう。

これは、「青が優れている」という幻想を持っているために
起る現象なのです。そして、自分が幻想を抱いていることに
なかなか気付くことができないのが、問題の根をさらに
深くしています。

モノゴトを分けて見ることには、問題は存在しません。
むしろ、生きていく上で必要な安全を担保してくれますし、
楽しむためには色々なモノゴトの違いを知る必要があります。

ですから、分けて見るという感覚は、僕たちにとって
不可欠なツールではあるのです。

しかし時として、分けて見ることと敵として見ることが
同じになってしまう場合があります。

そしてそれは、日本という国レベルなんかではなく、
僕たちの日常で、個人レベルで起っていることなのです。

つまり、個人レベルの問題も、国レベルの問題も、
その原因は「分けて見る」というツールの使い方について、
人類はまだまだ発展途上だということです。

「真の視点」では、あらゆるものがつながって見えます。
「真の視点」で見れば、すべてがハーモニーになっているのがわかります。
「真の視点」とは、モノゴトを俯瞰して見ることです。

それは、宇宙をひとつとして見る感覚です。

その美しさは、まさに筆舌に尽くしがたいものです。
それは、醜さに担保された、目に見える意味での美ではありません。
全宇宙が美しいという事実を、ハートで感覚することを指しています。

そうなったとき、この世にある問題とは、
単なる「考え方」によって引き起こされたものだと
知ることができます。

「分けて見る」というツールに、間違ったフィルターをつけて
世の中や相手を見たことによる、妄想だったのです。

「分けて見る」というツールをうまく使いこなせるようになれば、
相手を“敵視”するという幻想から解放されていきます。
それは、ムダに相手を「分けて」見なくなるからです。

幻想からやんわりと解放されることもあれば、
雷に打たれたような衝撃とともに解放されることもあるでしょう。

そして、本来あるべき姿で僕らがこの三次元世界を
見られるようになったとき、個人的な対立は消えていき、
ひいては日本が抱える諸問題も解消していくはずです。

なぜなら、問題とはすべて幻想にすぎないのですから。

その幻想が消えていったとき、この地球上から、
貧困や差別、戦争などといった問題も、消えていくのだと思います。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。

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